フランク・オーシャン『Blonde』

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Opening & Introduction

  2016年8月のリリースから、2年が経った。いまだにフランク・オーシャンのアルバム『Blonde』の名を毎日のように目にしている。Billboard 200圏内に100週間連続で入り、様々な英語メディアのレビュー記事に今なお、取り上げられている。ポッドキャストDissectのシーズン3では『Blonde』を中心にフランク・オーシャンを特集しているし、全米トップ大学のひとつであるカリフォルニア大学バークレー校では、この秋学期に学生主催のフランク・オーシャンに関するカリキュラムを開講するという。数多くのミュージシャンやアーティストたちも、SNSの投稿や作品の中で曲名や歌詞を引用したり、フランクの名前を挙げたりしている。

  ピッチアップされた歌声や、エフェクトや逆回転を使った楽器の音色がたゆたうように変化してゆくバックトラック、打つよりも抜くことによって存在するリズム、そして断片を組み合わせたような歌詞により一聴では掴みどころがないようにも思えるこのアルバムが、なぜいまだに多くの人々を魅了しているのか?この2年間に英語メディアで語られてきたことのアップデートも含めて、あらためて紐解いてみたいと思う。

  フランク・オーシャンが『Blonde』について語っているほぼ唯一と言えるのは、リリースから約3か月後のニューヨーク・タイムズに掲載されたインタビュー記事だ。本アルバムのリリースは前作『Channel ORANGE』から4年を空けてのものとなったが、フランクは「この間にスランプに陥り、満足できるものが何も作れない時期が続いた」と、記事の中で語っている。その時期はおよそ1年続き、ニューオーリンズ時代の幼なじみと久しぶりに再会し話をした後に「自分がどう育ってきたかをもっと語るべきだ」と考えるようになり、そのスランプを脱することができたという。『Blonde』は、フランク・オーシャンの自伝的作品なのだ。

  少年時代の家族や友人たちの想い出、誰かへ誓った永遠の愛情、胸を締め付けるような惜別の感情、ドラッグやマリファナ、セックス…彼の中に残るそれらの記憶の欠片を、音とともにコラージュし、何層にも塗り重ね、組み合わせたこのアルバムは、あらためて紐解いてみると、フランク・オーシャンという人間がどう生きてきたのか、何に価値を置いているのか、とても雄弁に物語っているように思える。

  ここでは『Blonde』から読み取ることができる以下の3つのテーマに沿いつつ、見てみたいと思う:

  1. 《歌詞》による「自己」の表現
  2. 《転換》による「二重性」の表現
  3. 《ループ》による「永遠」の表現

 

  1. 《歌詞》による「自己」の表現

  歌詞を中心に見てみると、先のインタビュー記事で語られていた通り、前作『Channel ORANGE』に比べて『Blonde』ではフランク・オーシャン自身の経験に基づいて書かれたと思われる歌詞が多いことには、冒頭から気づかされる。オープニング曲である『Nikes』はフィクションかと思わせるような表現もあるが、続く『Ivy』にはシド(オッド・フューチャーの元メンバーで、ジ・インターネットのヴォーカリスト)の名前が出て来たり、さらに3曲目『Pink + White』では故郷ニューオーリンズがハリケーンの被害にあった少年期の光景が描かれたりと、その鮮明で目に浮かぶような描写、そこに添えられた美しく懐かしさも感じさせるサウンドは、明らかにフランク自身の経験や想い出をもとに書かれた曲だろうと分かる。

  彼は、『Blonde』と同時にリリースしたマガジン『Boys Don't Cry』の中に次のような文章を掲載し、Tumblrにもポストしている。

「途中で『Godspeed』という物語を書いた。自分の少年時代の思い出がベースになった物語だ。少年ももちろん泣くけど、自分は十代の頃にはほとんど泣いたことが無いと思う。意外だけど、あの頃がこれまでの人生でもっとも良かったと思えるんだ。意外だよ、今の状態こそが、こうなりたいと子どもの頃宇宙にまで願っていたはずのものなのに。実際は酷いものだったのかもしれない。でも想い出はバックミラーの中でどんどん小さくなって、もはやすべてが良かったと思わせるんだ…本当にそう思う。」

  フランクが自分の人生を語るために断片的な記憶をたぐり寄せてみると、そこでもっとも輝いていたのは、ミュージシャンとして成功へと進んでいった時代ではなく、ニューオーリンズで過ごした少年時代だったのだ。その時代を懐かしみ愛しむような響きは、この『Blonde』というアルバムの根底に常に流れている。

  それらが続く中、突如再生されるのは4曲目『Be Yourself』の留守電メッセージだ。この声の主はフランクの幼なじみの母であるロージー・ワトソンで、『Channel ORANGE』収録の『Not Just Money』にも同じ人物が登場している。彼女のメッセージが再度このアルバムに使用された意味を考えてみると、「ドラッグやマリファナをやらないように」というアメリカの若者にとって耳が痛くユーモラスにも響く箇所がフォーカスされがちであるが、むしろ「他人になろうとせず、自分自身でいなさい」というタイトル通りのメッセージがメインであると思える。

  フランクが少年時代から自分の育ってきた軌跡を表現しようとした際に、この「他者と自己」という視点を中心に取り上げたのではないかと考えてみると、当てはまる曲は多い。次の曲『Solo』では「solo」「by myself」(自分ひとりで)と繰り返すことで自己の存在について語っているように感じられるし、この曲の反復(Reprise)であるはずなのにまったく異なる『Solo(Reprise)』ではアンドレ3000が現行シーンのラッパー(他者)と自分を比較するという、「他者と自己との対比」という構図が語られているように思える。『Self Control』は、タイトルから「自己」という言葉が出て来る。

  フランクやアンドレのような有名人であれば、パブリックなイメージと実際の自分のギャップに悩まされることも多いと思うが、インターネット時代においては一般人であってもデジタル(他者から見た姿)とリアル/フィジカル(本当の自分の姿)が異なっていくことがある。フランクは『Good Guy』で「メールの書き方と見た目が全然違う」男性のことを歌い、『Facebook Story』ではデジタルの世界であるFacebookで繋がりを承認しなかったことを理由に、リアルな日常で毎日一緒に過ごしている彼女から別れを告げられたセバスチャンのモノローグを使用している。この「デジタルとリアル/フィジカル」の対比も、「他者と自己」を押し広げたテーマとして描かれたと考えることができる。

  フランクの人生のストーリーにおいてクライマックスとなる曲は、『Seigfried』だ。「誰か他の人の考えの中で生きている」「これは俺の人生では無い」と、自分の人生が他者の価値観や他者からの期待に侵されていることを、絞り出すような高音の歌声と共に表現している。「2人の子どもとスイミングプール」という一文で表されるアメリカの標準的な一般家庭を持つべきかもしれないが、それが出来ないという葛藤の背景には、彼のミュージシャンとしての人生や、セクシャリティもあるのかと思う。その上でエリオット・スミスの歌詞を引用し、「これは友への愛おしい別れなんだ」と続けている。ここでドラッグ中毒に苦しんだ末に自殺したと言われるエリオットを引用し、ディストーションのかかった奥底から反響するような声で「ニルヴァーナと言えば、そこにあった」という一節で始まる詩を朗読していることは、「(マジック・)マッシュルーム」が見せた幻覚の中のことかもしれないが、死の存在を感じさせる。『Nights』では「ニルヴァーナは見たいが、まだ死にたくない」と歌われており、彼の中でニルヴァーナと死は確実に結びついているからだ。そのニルヴァーナが「そこにあった」と言っていることは、死に近い経験をした、もしくは死に等しい苦しみを得た、と解釈できるように思う。

  実際『Channel ORANGE』リリース以降のフランクは、この作品でグラミー賞も受賞し、はた目にはミュージシャンとして順風満帆のように見えた。だが、契約したDef Jamとの確執は続き、金銭的問題にも巻き込まれたという。クリス・ブラウンとの口論が暴力に発展し負傷したこともニュースとなった。自分の周りで起きることが彼のコントロールを超え、彼は「これまで戻れると思っていた場所にもう戻れない」と強い孤独感を感じた末に、ダッフルバッグに洋服、バックパックに音楽が入ったハードディスクだけを詰めてロサンゼルスを離れ、知り合いもほとんどいないロンドン行きの飛行機に乗ったという。ミュージシャンとして望んだ成功をようやく手に入れた末にあった、住む場所も奪われるほどの孤独。そしてロンドンの地で制作が始まったのが、この『Blonde』(と『Endless』)だ。

  その上で彼が「友への愛おしい別れ」と歌うもの、それは愛した友人や恋人への別れを告げるようであると同時に、それまでの自分の人生や自分自身との決別を意味しているように受け取れる。この『Seigfried』の詩には同時に「フェニックスの羽根」も出て来る。フェニックスは別名で火の鳥とも呼ばれる、死んでも自身の灰の中から何度でも蘇ることのできる伝説の鳥である。それまでの人生を一度終わらせて、再生する。他者の期待に沿うことをやめて、自分が望む生き方をする。おそらくそれは、『Channel ORANGE』以降、フランクがほとんどメディアやSNSに登場しなくなり、『Blonde』をグラミー賞にエントリーしなかったこととも関係があるのかもしれない。今の生き方こそが、再生し、取り戻した彼の「自己」なのだ。

  続く『Godspeed』は最小限のバックトラックの上で、フランクの歌声がもっとも感情的・感傷的に響く曲である。”Godspeed”とは、新しい旅へと出発する相手に対して幸運や成功を祈る言葉であり、フランクは自分から離れてゆく最愛の誰かに向かって、永遠に変わらない愛情を伝えるとともに別れの挨拶を送っている。フランクが少年時代をベースに書いたという物語が同じ『Godspeed』というタイトルであったことを考えれば、惜別の念を伝えている相手には二度と戻れない少年時代や、ニューオーリンズの地、友人、家族、さらには昔の自分自身も含まれるのかもしれない。賛美歌のように響くのは、オルガンや聖歌隊のようなコーラスが使われていることに加えて、コード進行に教会音楽に多用されアーメン終止とも呼ばれる変格終止が使われているからであるとDissectは説明している。歌詞には「食卓は準備できている」(詩篇23篇5節)、「動かさない山もある」(マタイ17章20節)という聖書からの引用があり、ゴスペル歌手であるキム・バレルの歌も含めて、もっともキリスト教的な背景が響いてくる曲である。

  『Blonde』では、アルバム全体を通じて、神やキリスト教を思わせる歌詞がいくつも登場する。彼はTumblrのポストにおいて、クリスチャンの家庭に育ったことを記している。家族はプロテスタントであるが、彼はしばらくの間カトリック信者として、家族とは別の教会に通っていたこともあるという。『Pink + White』の"Glory from above"という歌詞は、太陽の光が降り注ぐ様と同時に「神の栄光」を連想させるし、『Skyline To』には「神に罰を受けるまで」という赦されない行いかのような一節がある。『Close to You』では、別れの苦しさとともに「なんで俺は説教してるんだ?この聖歌隊に向かって、この無神論者に向かって」と歌っている。そして『Pretty Sweet』で歌われる「ワインを注ぐ、これは血、肉体、そして生」という歌詞は、イエス・キリストの最後の晩餐からの引用である。イエス・キリストはこの翌日に処刑されて死を迎えるが、3日後に復活する。これは、先ほどの『Seigfried』で暗喩されていた「死と再生」にも繋がっているように思える。同じ詩では夢と考えが交差する先に”getting a Glimmer of God”(=神の兆しを得ること)がある、とも書かれている。彼の価値観や考え方がクリスチャニティに大きく影響されていることは間違いなく、神の存在は、フランク・オーシャンとこのアルバムについて理解する上で重要な点のひとつである。

  そして始まる『Godspeed』の次の曲であり、かつアルバム最後の曲である『Futura Free』のイントロにおけるリズムは、最愛の人もしくは過去の自分と決別し、それでもフランクが人生を歩んでいく足音のように響く。『Seigfreid』の他者から自己へ、死から再生へ、そして『Godspeed』の神から人間へ、教会の中から日常の生活へ、彼が戻っていく瞬間である。早くもなく遅くもなく、淡々と刻まれるようなビートの上でフランクは、最低賃金も稼げない時代からミュージシャンとして成功した今までの人生をあらためて振り返る。『Futura Free』は、アルバムを通じて振り返ってきた彼の人生の「現在」を語る曲であると同時に、アルバムの構成上も、重要な意味を担っている。それについては、次章以降で見ていきたい。

 

  1. 《転換》による「二重性」の表現

  「フランク・オーシャンが『Blonde』において二重性(英語では”duality”)を表現しているのではないか」という見方は、リリース後の比較的早い段階から出ていた。もっとも気づきやすい例は、アルバムタイトルは"Blonde"と表記されるのに対して、アートワークには最後の"e"無しの"Blond"の文字が表記されている点で、一般的に「Blonde」表記は女性性、「Blond」表記は男性性を表し、この二重性がフランク自身の性的アイデンティティを示しているのではないか、と多くの人が指摘した。

  フランクは、二重性や、二つのストーリー/パターンを持つこと、あるいは二分することに非常にこだわっているように見える。”I got two versions”(=2バージョンある)というTumblrポスト、2種類あった表紙(マガジン『Boys Don’t Cry』)、2枚出たアルバム(『Blonde』と『Endless』)、2バージョンある曲『Nikes』、2色あるBlondedツアーTシャツなど、「二つのパターン」という図式に当てはめることができるものは多い。

  多くの人が『Blonde』の二重性について主張するもう一つの理由は、その構成にある。全17曲あるアルバムの真ん中に位置するのは曲順で9曲目の『Nights』であるが、実際この曲によってアルバム全体がちょうど2つに分割されている。正しくは、『Nights』の3分30秒目に起こるビートの転換によってアルバム全体が30分:30分の2つに分割されていて、無音が後半のビート音に変わる転換の瞬間が、アルバム全体の完全な中心に位置している。そのアイデアと、すべての曲の構成と長さの調整を重ねてそれを実現させていることは、この『Blonde』というアルバムの完成度におけるフランクのこだわりを示す、ひとつの例として挙げられるように思う。

  フランクはこのような分割を、以前より試行している。前作『Channel ORANGE』に収録された『Pyramids』では、前半で古代エジプトの女王クレオパトラ、後半で現代のストリップクラブで働く女性をそれぞれ描き、一曲の中で時空を超えて女性像が展開されてゆくストーリーを完成させた。歌詞に加えて、前半はリズミカルなクラブサウンド的曲調、後半は非常にスムースなR&B的曲調という全く異なる曲調を用いたことで、この時空の広がりをさらに印象付けた。前半・後半の間にはフューチャリスティックな、おそらくタイムワープ的な想像効果を狙ったサウンドが挿入されているが、そこから後半パートの歌が始まる瞬間は、この曲のちょうど真ん中、4分52秒目である。そして曲はそのちょうど倍である9分44秒に終わる(その後の8秒間はディストーション)。つまりここでもフランクの歌を中心に、曲がちょうど2つに分割されているのだ。

  『Blonde』最後の曲である『Futura Free』も同じ構造を持っている。曲が終わった後に2人の人が争っているようなスキットが挿入され、それが完全に無音になる瞬間が4分42秒。後半の無音と少年たちのインタビューと「1光年ってどれくらい?」の声を含めた曲全体が、ちょうど倍である9分24秒だ。なお9分24秒は分のみで表すと9.4分であるが、1光年は約9.46ペタメートルである。つまり曲の長さ自体にも意味があり、さらにそれを2つに分割する、という試みを行っているのだ。この『Futura Free』で分割された前半・後半はそれぞれ何を表すのかと考えてみた場合、前半は前の章で歌詞から見た通り、最低賃金も稼げない頃からミュージシャンとして成功した今を振り返る内容であり、フランクの過去と現在である。そして、おそらく後半は未来を意味しているのではないかと思う。『Futura Free』の曲名にある”Futura”はフォントの名前だが、当然”Future”(未来)という単語を連想させる。またインタビューで初めに名前を聞かれて答えているライアンは、フランクの14歳年下の弟だ。ライアンが11歳くらいのときのインタビューの録音らしく、声も話し方も明らかに幼い。「持てたら良いなと思う3つの能力は何?」と聞かれ、「空を飛ぶこと、スーパーパワーを持つこと…」と子どもらしい回答をする幼いライアンと友人たちの屈託の無い声に、フランクは自身が最も愛した少年時代の姿を投影しているのかもしれないし、それと同時に、ライアンに人生にバトンを渡しているようにも、ライアンひいては自分自身にもエールを送っているようにも感じられるのだ。"Future"(未来)は"Free"(自由)なのだと。

  『Nights』のビートの転換に話を戻すと、ポッドキャストDissectのエピソード13において、ホストのコール・カシュナは「『Nights』のこの音的カオスから静かで美しいメロディに転じる転換は、ザ・ビートルズの曲『A Day In The Life』を参考にしたのではないか」と分析している。『A Day In The Life』では、オーケストラのそれぞれの楽器が一番低い音から一番高い音まで思い思いに弾いていくカオス的なサウンドが、曲の中盤で使われている。そのカオスが上限に達すると、軽快で規則正しいリズムと共に別の歌とストーリーが展開していく。「この展開の意外性こそが聴き手を魅了する」というのが、大学でクラシック音楽理論を専攻した彼の説明だ。

  『A Day In The Life』はアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』の最後の曲になるが、この曲の最後にもう一度繰り返される音のカオスがブレークした後に人の声を逆回転させた音を使用していることなど、改めて考えてみると、確かにフランク・オーシャンは『Blonde』を作る際に、かなりビートルズを聴き、参考にしたのではないかと思わせる。それは『White Ferrari』でビートルズの『Here, There, and Everywhere』のメロディを一部用いていることや、『Seigfried』で『Flying』をサンプリングしたこと以上に、彼のアルバム制作全体に影響を与えているように思える。例えば『Solo』に対して『Solo(Reprise)』があるのは、ビートルズのアルバム内でタイトル曲『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』に対して『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band(Reprise)』があるのとも同じだ。

  先のDissectのコールの分析では、カオス的な音から整ったメロディへの転換の類似性だけが語られていたが、あらためて考えてみると、『Nights』というタイトル自体が、『A Day In The Life』と対比になっているのではないだろうか。ビートルズが人生における”A Day”(「ある一日」、あるいは「ある昼間」)を歌ったのに対して、フランクはアンサーソング的に、人生における”Nights”(複数の「夜」、繰り返される「夜」)を歌ったように思えてくる。また歌詞の内容も、ビートルズの『A Day In The Life』は新聞に掲載されていたニュースや映画について歌われているが、フランクの『Nights』も前半パートは犯罪シーンのような内容であり、フランク自身の経験というよりも何らかのニュースか映画をベースとして描き出したものと考えた方がしっくりくる。またビートルズの曲は、「変哲もなく意味もない日常からマリファナを吸って抜け出したい」という意味だと言われているが、フランクはそれに対して「毎日、毎晩繰り返されるクソみたいな日常の繰り返し」という気持ちを"Every day shit, Every night shit"という歌詞に載せた上で、「マリファナを吸うことは安いバケーションだ」と歌っている。こられを対比させてあらためて考えてみると、とても興味深いように思う。

  フランクは『Boys Don't Cry』マガジンの貢献者リストでビートルズの名前を挙げるとともに、自身のラジオプログラムBlonded Radioの中でも「彼らのおかげでスランプを抜け出ることができた」と感謝を述べている。ビートルズは『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を含むほとんどのアルバムをロンドンのアビー・ロード・スタジオで制作しているが、フランク・オーシャンも後に『Blonde』に収録される多くの曲を同じアビー・ロード・スタジオでレコーディングしている。

  『Nights』のみならず、『Blonde』のほとんどの曲には曲調の転換がある。声のピッチ、バックトラックの楽器の役割、ビート、それらを転換させて、違う曲や違うストーリーを繋げる。二重にする。これはもはやフランク・オーシャンの楽曲の大きな特長として認知されている。

  『Blonde』以降、曲の間に転換を配置し、ビートやリズムを変えたり、曲調を変えたりすることでストーリーに膨らみを持たせ展開させていく曲が、現在メジャーシーンにいるミュージシャンやラッパーによってどれくらい作られているかについても、考えてみると面白い。すべてがフランク・オーシャンの影響であるとは言わないが、2016年以降のヒップホップ/ラップ、R&Bを中心とした多くの作品にかなり大きな影響を与えていると言っても過言ではないと思う。

 

  1. 《ループ》による「永遠」の表現

  アルバム全体を通じて印象深く繰り返される単語に、"immortality"がある。永遠性や永続性を意味する単語だ。『Pink + White』では、おそらく物語"Godspeed"の中でも描写されたであろう、ニューオーリンズでのフランク自身の少年時代の煌めくような光景を描き、その最後に「俺はimmortalityが好きなのかもしれない。これが人生だ。人生のimmortalityだ」と歌う。『Futura Free』にも、「テック企業は俺にimmortalityをくれよ」という一節がある。あの時代が永遠に続いて欲しかった、というフランクの願いが感じ取れるように思う。

  その一方で、人生が、あるいは人生における特定の時代が、当然ながら永遠に続かないことも、フランクは理解している。『Close to You』では「でも俺たち年を取っていくんだ、そんなに長くは残されていないだ」と語りかけ、『White Ferrari』では「君がそれについて考えると、途端に終わってしまう、それが人生なんだ」と歌う。続く『Seigfried』では「一瞬 一回の太陽フレアで俺たちは破壊される」と、人生の儚さを語っている。どれだけ”immortality”を願っても、時間は流れ、良い時代は過ぎゆく。人間の生は必ず終わる”mortal”なものなのだ。

  そして『Blonde』最後の曲『Futura Free』においてフランクが歌う最後の章は、「ホーリー・グローブに敬意を 俺はセブンス出身だけど」から始まる。ホーリー・グローブはニューオーリンズの街の名前で、リル・ウェインの出身地である。同じニューオーリンズだがセブンス・ワード(7区)出身だと言うフランクは、「ツインズ、ランス、クラーク、マット」と実際のニューオーリンズ時代の友人・知人だと思われる名前を次々と挙げ、最後に「すべてが180度変わってしまった。でも巻き戻して欲しいんだ」とすべてを締め括っている。ニューオーリンズでの少年時代が一番良かったというノートを思い起こさせる。

  ここでアルバム全体をリピート再生で聴いていると、この『Futura Free』から1曲目『Nikes』に戻る際に、流れが完全に繋がっているように聴こえることに気づかされる。インタビューの音声の後、繰り返される電子音がどんどん早くなり、さっと消える。そこから『Nikes』の冒頭の音が始まるまでの間の長さ、始まる音の音程が、明らかにリピート再生されることを想定して作られているように聴こえるのだ。Dissectでもこの点は言及され、コールはどちらの曲もほぼ同じBPMであること、またコードに変わったフラットナインスが使われていることも共通点として挙げている。2017年のBlondedツアーのセットリストでも、最後から2曲目が『Futura Free』、最後が『Nikes』という順番であった。

  つまりこのアルバムはループしていて、「巻き戻してくれ」という歌詞によって、私たちはアルバムの冒頭へと戻され、またフランクの人生を辿っていくのだ。だからこそアルバム1曲目である『Nikes』の後半で、”We gon’ see the future first”(=俺たちは未来を先に見る)と歌われているのだろう。我々は”future”を先に見るのでなく、”futura (free)”を先に聴いているのだ。

  そう考えてあらためて歌詞をなぞってみると、フランクが自身の人生を帯のループと捉えて表現しているだろうことは、『Seigfried』でコーラスとして歌われる「これはループだ、そしてループの反対もループだ」という歌詞からも感じ取ることができる。この曲や『Pretty Sweet』で歌われる”this side(こちら側)”や”outside(外側)”、”the other side(反対側)”という歌詞は、帯状の人生のループの上でどちら側を歩むべきか、どちら側で生きるべきかという、フランクの自身の人生に対する葛藤の表現なのだ。そして「あちら側で生きる人生」と「こちら側で生きる人生」、それも彼が持っている”duality“、二重性なのだと思う。

  さらに、『Nights』の3分30秒目のビートの転換がこのアルバムの完全な中心点に位置していることを前述したが、これによって2分割されるアルバムの前半・後半はそれぞれ何を意味しているのだろうか?歌詞やサウンド的に、前半はノスタルジックではあるがポジティブで、彼の人生が前に進んでいく様が描かれているように思う。それと比較すると後半は別れの悲しみや彼の苦しみが描かれた曲が多く、後悔の念やそれ以前に戻りたいといった感情が表れているように思える。さらに音について、これはDissectを聴いていて気づいたことであるが、『Blonde』ではドラムやピアノの1音を逆回転した音が多く使われている。『Pretty Sweet』で聴こえる流星が自分に向かって飛んでくるようなバスドラムの逆回転音、『Futura Free』で聴こえるぼわっぼわっと立ち上がってくるようなピアノの逆回転音などがそれであるが、この逆回転の音はアルバム後半でしか使われていない。しかも最初に使われるのは、『Nights』の3分30秒目のビート転換の直後にあるバスドラムの逆回転音なのだ。それによりこのアルバムの前半は「正回転」、後半は「逆回転」を表しているのではないだろうか。

  つまり『Blonde』はアルバム全体がひとつのループ構造を持っている上に、さらにビート転換の中心点に向かって正回転と逆回転が表現されている、「∞」のような構造をしているように感じられるのだ。それはまさしく、”immortality”の象徴である。

  幸せな時間が永遠に続いて欲しいとどれだけ願っても、人生は儚く、人間が持てる時間は有限である。だからせめて『Blonde』だけは無限にいつまでもループ再生されるように、そこでは永遠に続くものが得られるように。このアルバムはおそらく、彼のその万感の願いを込めて作られているのだろうと思う。

 

Conclusion

  フランク・オーシャンは『Blonde』において、歌詞での表現や曲調の転換を組み合わせ、ときに曲の長さまでをコントロールすることで、常に”duality”(二重性)を持たせたストーリーで自分の人生を表現している。女性的な性質/男性的な性質を合わせ持つこと、他者から望まれる姿を捨てて自分自身へと戻れたこと、ミュージシャンとして成功を遂げた大人になってみると子供時代の方が幸せであったように思えること、神への信仰がありつつも不信心な行いもする人間であること、そして、どれだけ永遠を求めても人間の生には必ず終わりが来ること。その人生すべてを大きなループに見立て、あちら側で生きる人生/こちら側で生きる人生の間の葛藤と選択の末に、現在の自分があること。そしてこの先には、自由な未来があること。

  この壮大な構想はおそらくすべて計算されており、彼は音楽のアルバムを作るというよりは、文学作品や映画を作るような気持ちでプロジェクトに臨んだように思う。遠い記憶の欠片を手繰り寄せ、組み合わせ、歌詞とメロディを一旦かたちにした後で、音のアレンジやバックトラック、後ろに聴こえるノイズすらも、ひたすらに断片を集め、重ね合わせてきたのだ。その音楽的な表現と、壮大な計算を同時に達成するのは、途方も無く膨大な作業であったことだろう。

  同じノートで、彼はこうも書いている。「このプロジェクトの編集は、ロマンチックに感じることもあった。ただずっと、まるで16億のマクラーレンF1の前で、使い捨てカメラを持っているような気分だった。」

  映画と言えば、このアルバムに関連して唯一ある映像は『Nikes』のMVである。断片的な映像がコラージュされて次々と切り替わっていき、意味があるようにも無いようにも見えるのは『Blonde』のアルバム全体と同じである。あらためて見返してみると、2つあるマリア像、2人いる少女、男女どちらか分からない2人が折り重なっている様子など、ここでも”duality”が表現されている。さらにフランク自身も、スパンコールのついた闘牛士のような衣装で舞台に立つフランクと、スポーツカーの前でTシャツを着ているフランクの2人がいる。ループのこちら側で生きるフランクと、反対側で生きるフランクなのかもしれない。スポーツカーの前のフランクに火がつけられて倒れると、もう一方のフランクも舞台上で倒れる。人が駆け寄り、消火器で一方のフランクの身体の火が消される。死と再生を表すのであろう、妊娠して大きくなった誰かのお腹。泣いているフランクの横顔。笑うフランクの横顔。最後に大きく映る赤ん坊。男の子か女の子かは分からないが、おそらくこの子の髪の毛はブロンドだ。

 

Closing

  フランク・オーシャンの作品が何よりも優れているのは、歌詞や背景を知らなくても、隠された壮大な仕掛けを読み解かなくても、音楽を聴いているだけで感情が伝わってくることだと思う。そして彼の音楽に呼応するように、自分の中からも、記憶と感情が蘇ってくる。子どもの頃の夏休み、自転車で走り回った公園、幼い友人たちの顔、優しい祖母の手、木の色や太陽の光、遠い笑い声、ドライブした道、愛した誰か…。彼の記憶の断片のように、自分の記憶の断片がキラキラと目の前に落ちてくるのだ。

  先にも引用したニューヨーク・タイムズの記事で、彼はこう語っている。

 「(音楽は)ただのコードで、ただのメロディだ。それらをどう組み合わせれば、自分が感じたい気持ちを感じさせてくれるのかは分からない。ただ、それによって想起されないといけない感情だけは正確に分かる。」

  フランクはひとつの単語だけを、300回も400回もレコーディングすることがあるという。曲によっては50バージョンあるものもあるという。彼が届けようとした感情を、人種、国籍、性別、文化、宗教、すべての違いを超えて、私たち自身の感情として感受する。それこそが、彼、フランク・オーシャンがこのアルバム『Blonde』において成し遂げたかったことだと信じている。

 

fin.